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0:11 八尾の旧駅の画像、貴重ですね。物心ついた時は今の位置にありましたから。アップして下さりありがとうございます。
ジャスコ、イズミヤ、ニチイ、あぁ~懐かしい。
東大阪出身です😅いまも実家があり、布施にはよく行くのですが、、、やっぱニチイが懐かしい😅
懐かしいですね。行先表示が重たい鉄板から額のくるくる方式に変わり、また徐々に冷房車が増えつつある時代でした。夏に冷房車じゃない車両が来ると、一目散に窓を開けた子供の頃でした。確か丸い両サイドの持ち手タイプもありましたね。
クレオパトラ化粧品ってこんな昔からあったんか!写真から15年くらいかけて国分あたりがすごい発展したよなぁ。自分は平成初期生まれでその頃はまだ田畑や緑が割と残ってたけどそこからもさらに段々と新しい家が増えていった。親は昭和50年当時大和川の河川敷で土筆が取って、下処理して食べてたと言ってた。布施はビブレがまだ建ってないけど、この頃のほうが栄えてるのが伝わる。京阪神圏の色んなエリアに住んでたからいろんなところをみてきたけど、やっぱり中河内、南河内は平成以降停滞してるのがわかる…
布施のニチイが懐かしくて涙出るわ
ビスタカー2世や旧型電車が懐かしいです。
やっぱりタヌキ顔の一族はマルーンが似合う
懐かしいジャスコの看板😂行ったことあるで😊
1:51大阪線準急3両も当時の定番でしたね✨😲
もう布施駅が高架になったあとですね。
懐かしい!近鉄マルーン、長方形の行先表示、きっと床は黒っぽい木板で水色の扇風機が回ってるんやろな。
昭和50年代初頭。没落の一途を辿ってた近鉄の名阪ノンストップ特急。東海道新幹線が開業してから、旅客を新幹線に完全に奪われ、ほそぼそと運行されてました。その凋落に歯止めが掛かったのが、相次ぐ国鉄の値上げ。それは、新幹線も例外なく実施され、近鉄の名阪料金の倍近くにもなりました。その高額料金に嫌気が指した旅客が近鉄利用に鞍替えして、50年代半ばには、ノンストップ特急に流れ、利用者が急拡大したのです。没落した時には、一両編成のノンストップ特急を走らせる案まで浮上したのに、急拡大後は、近鉄特急のチケットが手に入りづらくなるくらいにまでになりました。
「国分終点です。最後の一両扉開きません。前の車両へおまわり下さい。」 ホーム延ばすのに踏切廃止で地下道になったけど不便だった。
大阪線の「3両準急」は1990年代まで走っていたというね・・・あと「4両+パンタなし1両」というのも。
1:18今となっては伝説の大阪線普通5両😲この写真では先頭車の天井がラインデリアカバーがあり、2両目から後ろの車両天井にはクーラーカバーが見える事から当時の定番であった【上本町←1+4→国分】編成ですね✨✨✨
近鉄が三ノ宮まで行くようになることや俊徳道駅下の貨物線が旅客化されるなんて、当時の人は想像できないだろうな。
後に6両編成に統一されたため無くなった、各停の4両ユニット+増結Tcの5両編成が大好きでした。
10100系は今見ても充分カッコイイので、当時の近鉄沿線での人気は凄まじかったんでしょうね~
柏原市出身で同時代に近鉄の写真を撮影しに大和川橋梁へよく行きました。今はあちこちに高い建物が建ったりして撮影しづらくなりましたね。新ビスタカー3重連運転、懐かしい。準急3両、普通5両、区急3両、急行4両または6両の頃。快急、区急は途中からできましたね。
懐かしい‼️布施駅から八尾駅間をよく利用しました。
サムネの後ろにあるクレオパトラ化粧品は今はありません。
懐かしいですが、まだ私が新製配置されてない年のものもありますね。その頃はまだ旧型車も走ってたんだなぁ。ただ、10400系或いは11400系新エースカーがたまらないです。クが同じ方向につく、本線系では唯一の特急車でしたね。
高架前の八尾駅が簡素やね初めてみた
高架工事中は少し南に移動したのかプレハブでした昔からある商店街の端で今は小さな公園になっていました
内装が板張りで、ニスが重ね塗りされて鈍く光っていた古い各停や準急が走っていたのは、この頃までだったかなあ。懐かしいです。
丁度あの衝突事故をきっかけにした複線化工事が無事に終わったあたりですね
一般車の色系統が茶色一色から、茶色のライン+クリーム色になったのは昭和60年代くらいですかね?
たぶん昭和56年ぐらいから徐々に塗色変更が始まったように記憶しています
俊徳道駅は当時は城東貨物線という貨物列車しか走らなかったが2008年3月からはおおさか東線に名称を変えて貨物列車だけではなく221系を使用された普通や直通快速も見ることが出来ます。by酒向正也
車両等とは、関係ない話で恐縮ですが‥ニチイ懐かしい!!
ビスタカーEXってこんな昔からあったんか
ま、リニューアル前やから、当時の名称は、ニュービスタカーか、ビスタカーⅢ世でした。二階建て車の窓が独特で、ハーモニカとか言われてました。颯爽と奈良線を駆け抜けていく、当時のビスタカーは子供の頃の憧れでしたよ。
>>サムネ布施かな🙄💬
通勤に使用される車両は引退したりまた現役の車両も様々ですね。by酒向正也
10100系ビスタカーII世は1959年の伊勢湾台風に伴う名古屋線改軌(狭軌の1,067mmから標準軌の1,435mmに変更)から名阪直通のシンボルとしてデビューしました。しかし3車体連接で乗り心地が非常に悪かったので1978年から翌年にかけて後継となる4両固定ボギー車で中間2:両が2階建て構造の現在も趣を変えながら活躍する30000系ビスタカーIII世に置き替えられて姿を消しました。by酒向正也
ビスタカー9連はサヨナラ列車かな
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八尾の旧駅の画像、貴重ですね。物心ついた時は今の位置にありましたから。
アップして下さりありがとうございます。
ジャスコ、イズミヤ、ニチイ、あぁ~懐かしい。
東大阪出身です😅いまも実家があり、布施にはよく行くのですが、、、やっぱニチイが懐かしい😅
懐かしいですね。行先表示が重たい鉄板から額のくるくる方式に変わり、また徐々に冷房車が増えつつある時代でした。夏に冷房車じゃない車両が来ると、一目散に窓を開けた子供の頃でした。確か丸い両サイドの持ち手タイプもありましたね。
クレオパトラ化粧品ってこんな昔からあったんか!
写真から15年くらいかけて国分あたりがすごい発展したよなぁ。自分は平成初期生まれでその頃はまだ田畑や緑が割と残ってたけどそこからもさらに段々と新しい家が増えていった。親は昭和50年当時大和川の河川敷で土筆が取って、下処理して食べてたと言ってた。
布施はビブレがまだ建ってないけど、この頃のほうが栄えてるのが伝わる。京阪神圏の色んなエリアに住んでたからいろんなところをみてきたけど、やっぱり中河内、南河内は平成以降停滞してるのがわかる…
布施のニチイが懐かしくて涙出るわ
ビスタカー2世や旧型電車が懐かしいです。
やっぱりタヌキ顔の一族はマルーンが似合う
懐かしいジャスコの看板😂
行ったことあるで😊
1:51
大阪線準急3両も当時の定番でしたね✨😲
もう布施駅が高架になったあとですね。
懐かしい!近鉄マルーン、長方形の行先表示、きっと床は黒っぽい木板で水色の扇風機が回ってるんやろな。
昭和50年代初頭。
没落の一途を辿ってた近鉄の名阪ノンストップ特急。
東海道新幹線が開業してから、旅客を新幹線に完全に奪われ、ほそぼそと運行されてました。
その凋落に歯止めが掛かったのが、相次ぐ国鉄の値上げ。
それは、新幹線も例外なく実施され、近鉄の名阪料金の倍近くにもなりました。
その高額料金に嫌気が指した旅客が近鉄利用に鞍替えして、50年代半ばには、ノンストップ特急に流れ、利用者が急拡大したのです。
没落した時には、一両編成のノンストップ特急を走らせる案まで浮上したのに、急拡大後は、近鉄特急のチケットが手に入りづらくなるくらいにまでになりました。
「国分終点です。最後の一両扉開きません。前の車両へおまわり下さい。」 ホーム延ばすのに踏切廃止で地下道になったけど不便だった。
大阪線の「3両準急」は1990年代まで走っていたというね・・・あと「4両+パンタなし1両」というのも。
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今となっては伝説の大阪線普通5両😲
この写真では先頭車の天井がラインデリアカバーがあり、2両目から後ろの車両天井にはクーラーカバーが見える事から当時の定番であった【上本町←1+4→国分】編成ですね✨✨✨
近鉄が三ノ宮まで行くようになることや俊徳道駅下の貨物線が旅客化されるなんて、当時の人は想像できないだろうな。
後に6両編成に統一されたため無くなった、各停の4両ユニット+増結Tcの5両編成が大好きでした。
10100系は今見ても充分カッコイイので、当時の近鉄沿線での人気は凄まじかったんでしょうね~
柏原市出身で同時代に近鉄の写真を撮影しに大和川橋梁へよく行きました。
今はあちこちに高い建物が建ったりして撮影しづらくなりましたね。
新ビスタカー3重連運転、懐かしい。準急3両、普通5両、区急3両、急行4両または6両の頃。
快急、区急は途中からできましたね。
懐かしい‼️布施駅から八尾駅間をよく利用しました。
サムネの後ろにあるクレオパトラ化粧品は今はありません。
懐かしいですが、まだ私が新製配置されてない年のものもありますね。
その頃はまだ旧型車も走ってたんだなぁ。
ただ、10400系或いは11400系新エースカーがたまらないです。
クが同じ方向につく、本線系では唯一の特急車でしたね。
高架前の八尾駅が簡素やね
初めてみた
高架工事中は少し南に移動したのかプレハブでした
昔からある商店街の端で今は小さな公園になっていました
内装が板張りで、ニスが重ね塗りされて鈍く光っていた古い各停や準急が走っていたのは、この頃までだったかなあ。懐かしいです。
丁度あの衝突事故をきっかけにした複線化工事が無事に終わったあたりですね
一般車の色系統が茶色一色から、茶色のライン+クリーム色になったのは昭和60年代くらいですかね?
たぶん昭和56年ぐらいから徐々に塗色変更が始まったように記憶しています
俊徳道駅は当時は城東貨物線という貨物列車しか走らなかったが2008年3月からはおおさか東線に名称を変えて貨物列車だけではなく221系を使用された普通や直通快速も見ることが出来ます。by酒向正也
車両等とは、関係ない話で恐縮ですが‥
ニチイ懐かしい!!
ビスタカーEXってこんな昔からあったんか
ま、リニューアル前やから、当時の名称は、ニュービスタカーか、ビスタカーⅢ世でした。
二階建て車の窓が独特で、ハーモニカとか言われてました。
颯爽と奈良線を駆け抜けていく、当時のビスタカーは子供の頃の憧れでしたよ。
>>サムネ
布施かな🙄💬
通勤に使用される車両は引退したりまた現役の車両も様々ですね。by酒向正也
10100系ビスタカーII世は1959年の伊勢湾台風に伴う名古屋線改軌(狭軌の1,067mmから標準軌の1,435mmに変更)から名阪直通のシンボルとしてデビューしました。しかし3車体連接で乗り心地が非常に悪かったので1978年から翌年にかけて後継となる4両固定ボギー車で中間2:両が2階建て構造の現在も趣を変えながら活躍する30000系ビスタカーIII世に置き替えられて姿を消しました。by酒向正也
ビスタカー9連はサヨナラ列車かな